Saturday, March 22, 2014

音楽を聴く耳と文章のリズム ー 村上春樹が言うところの、文章と音楽のの深〜い関係

「いつか土に帰る日までの一日」という谷川俊太郎の詩に最近出合い、英語に翻訳させてもらった。その中で一番好きなくだりがこれだ:

日記を書きたかったが眠くて書けなかった
一日の出来事のうちのどれを書き
どれを書かないかという判断はいつもむずかしい
書かずにいられないことは何ひとつないのに
何も書かずにいると落ち着かないのは何故だろう

I wanted to write a diary, but I was too sleepy to write
To decide which events of the day to write about
Or not (to write about) is always difficult
There is not one thing that I cannot live without writing
But why don't I feel at ease if I don't write anything?

この部分を読んだ時、「まったくだ!」とよく落語家が扇子でやるように、膝をぴしゃりと叩きたくなった。私は一日が終わる頃、書きたいことで頭がいっぱいになっている事が多い。最近では、ニュースにもなったベビーシッターについて、アメリカ事情と比較してどうして日本では健全なベビーシッター文化が成り立たないかを検証したり、東京で初めて出来た友達でカザフスタン出身のアイスルという医学生の事とか、銭湯にみる、服を脱いでも化粧を落としても美しい人の共通点とか、独断と偏見で綴る、日本よりアメリカの方が優れている物とか、米人の夫の日本語の間違いを指摘したら、私が崇拝するWorld Englishes的観点から「僕は僕のvarietyを喋ってるんだ。君はLinguistic Imperialistだ!」とまっとうな反論されて度肝を抜かれた事とか、この間行って来たハネムーンの事とか、それはもう書きたいことだらけで収拾がつかなくなっている。

谷川俊太郎が言うように、この中で書かずにいられないことは何ひとつない。書き始めたら意外と5行くらいであっけなく終わってしまうような、取るに足らない話題だらけなのかも知れない。でも何も書かずにいると無性に落ち着かなくなり、罪悪感にまで苛まれる始末だ。しまいには眠くなってベッドにもぐり込んでしまうのだが、朝起きてまたひとつ、ふたつ、と書きたい事が増え、リストは果てしなく長くなる一方なのだ。




ところで、今日書きたかったのは、書きたいことが山ほどある!という事ではない。今読んでいる本の事を書きたかったのだ。その本とは、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」という題の本で、2011年に出版された。小澤征爾が村上春樹の自宅で熱いほうじ茶を飲んでクラシックのCDを聴きながら音楽談義したものが、そのままふたりの会話形式で綴られている。ここで私が目を見張ったのが、村上春樹のクラシックを聴く耳についてだ。彼は専らジャズを好んで聴くひとだとばかり思い込んでいたからだ。彼の知識の深さにはマエストロも驚きを隠せないでいた。村上春樹は途中で、「文章と音楽との関係」について触れている。彼いわく、音楽的な耳を持っていないと、文章はうまく書けない。なぜなら、文章で一番大事なのはリズムで、リズムのない文章を書く人には、文章家としての資質はないからだそうだ。私はそこでやけに納得してしまった。私が村上春樹の文章が好きなのは、彼の持つ音楽的な文章から醸し出されるリズムを感じ取っていたからなのかも知れない、と。

そうやって自分が都合の良いように勝手に解釈したのには、理由がある。カクイウ私も音楽家の端くれだからだ。私は国立の音楽学部のある大学を第一志望としていて、ピアノから声楽、ソルフェージュ、聴音、音楽の理論が実技試験で課された。が、センター試験の結果がボロボロだったため、その大学には不合格になってしまった。浪人は経済的に無理だったので、第三志望の私立の大学へ進学したものの、周りの友達はサークルとバイトに明け暮れる毎日で、私は自分の居場所を見出せなかった。私は勉強がしたかったし、何よりピアノが弾きたかったのだ。そこで選んだ道は、アメリカへの留学。私の人生はそこで大きく変わった。

交換留学でお世話になったアーカンソーの州立大学で出会ったのは、スミス教授というピアノの先生だった。交換留学生は専攻は関係なく、基本的にどんな授業でも履修していいことになっていた。名門インディアナ大学のピアノ課で博士号をとったスミス教授は、ピアノ専攻の学生しかレッスンを持たないと聞いていたが、私はすぐにスミス教授のオフィスのドアを叩き、先生のもとでピアノを習わせて欲しい、と懇願しに行った。じゃあ、何か弾いてみなさい、と突然言われて弾いたのがショパンでもバッハでもなく、何を思ったか坂本龍一のEnergy Flow だった。その時暗譜していた曲がそれしか思いつかなかったのだ。弾き終わって恐る恐るスミス教授の表情を窺うと、「君はいい音を出す。いいピアニストだ」と即座に入門を認めてくれた。

本の前半で小澤征爾と村上春樹が、ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第三番について語っているのだが、小澤征爾がオーケストラとピアノの間の取り方について話している所がある。そこで小澤が『ティー・ヤター』とか『ティイーヤンティー』とか言っているのを読んで、懐かしくて笑ってしまった。スミス教授も、よくリズムの説明をする時に、『ティー・ヤッタッタ・ヤッタッタ・ヤッタッタター』とか言って教えてくれたからだ。それまで外国の先生に外国語でピアノを教わったことがなかった私には、そのティー・ヤターがとても新鮮で、本当のところを言うと初めの頃は吹き出すのをこらえるのに必死だった。だってスミス教授、大真面目な顔をして、ヤッタッタヤッタッタ言ってるんですもの!

そんな昔の出来事に思い出し笑いしながら、本の音楽談義に出て来る、内田光子の演奏(ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第三番、第三楽章)を最後に紹介します。小澤征爾曰く、内田光子は「本当に耳が良くて、音が実にきれいで、『思い切りがいい』ピアニスト」らしい。私も実は数年前、ボストンで彼女がモーツァルトのピアノ協奏曲を弾くのを生で見たことがあるので、彼女の音のきれいさについては知っていたが、この演奏を聴いて小澤征爾が言うところの「思い切りの良さ」も頷ける。気付くと前のめりになって聴いてしまっているような、人を惹き付けるパワフルな演奏だ。彼女もまた、質のいい文章家であるに違いない。







5 comments:

  1. 村上春樹の小説が好きな理由、僕にも同じだと思います。音楽はなおこさんの方が詳しいと思いますけど、その「文章と音楽との関係」ということは僕が昔からよく考え込んだことがあります。このblog postを読んで本当に楽しかった!

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    1. Chrisさん、ありがとう!!文章と音楽の深〜い関係、面白いですよね!私は実は言語学と音楽の関係にも興味があって、もし将来博士号に挑戦するのなら、その分野も興味あるなぁ、と最近ある論文を読んで思いました。
      ところでChrisさんに質問があります。村上春樹の書く文章の独特なリズムですが、違う言語に翻訳されるとやっぱりそれは失われてしまうものなんでしょうか?Chrisさんは例えば英訳される時に、リズムに注意を払いますか?

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    2. なおこさん、やっぱり面白いですね。言語学と音楽の関係と言うことも凄く面白いと思います。ところで、どういう論文を読まれてますか、最近は?

      翻訳する時についてですが、やっぱりリズムに注意します、僕には。でもそれは、どう頑張っても元の言語の独特なリズムを失わざるを得ないと思います。Jay RubinとPhillip Gabrielによって翻訳された村上春樹の小説を読む時、どれぐらい上手な英語でも、どれぐらい美しくリズムの良い英語でも、このところの日本語はどういう感じだったかなと思って、やめて、そして元の日本語を読むことにします。で、翻訳するときは絶望だけです。翻訳には発見することより失うことが多いですね。

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    3. クリスさん、お返事が遅れてしまってごめんなさい。言語学と音楽の関係ですが、すみません、論文じゃなくて、theguardian の"Are musicians better language learners?"というオンラインの記事でした。なかなか面白いので興味があったら読んでみてください:
      http://www.theguardian.com/education/2014/feb/27/musicians-better-language-learners?CMP=twt_gu

      それから、The case for language learningというシリーズも面白いので、時間があったら是非読んでみて下さいね:
      http://www.theguardian.com/education/series/the-case-for-language-learning

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